洛樂史学会HPのおまけコンテンツ その5

「続日本紀」の多産記事

by 泥


はじめに

えぇと、まあその、タイトル通りの内容です。
歴史書らしからぬほのぼの感を醸し出してる多産記事をまとめてみました。
「続日本紀」前半のそのまた前半あたりがまったりしてて好きです(意味不明)
例によって、中途半端に投げ出してますけど、そこはまあ御愛嬌ってことで。
ってゆうか、突き詰めるトコまで突き詰めたら、こんなとこに載せないで卒論にするし(え?
こんなもんを作った理由は、たまたま手元に続日本紀があったから。ってゆうのは内緒です。
なんていうかほら、記事の抜粋でもしながらじゃないと、通読なんて無理に決まってんじゃん!?
何をいきなりキレてるのかって言うと、つまり、読みながら作っていったモノだから、
内容が自家撞着に陥ってても笑って許してね☆ ってことです。
間違いを指摘していただけたらもちろん嬉しいんですけども。

少しばかり真面目にまとめたのはこちら
↑のほうが簡潔にまとまってて読みやすいです。


凡例

※ 「☆」に続けて記したのが、お母さんの名前。
※ 生まれた人数と男女、生まれた場所、朝廷からのプレゼント、の順。
   話題になってるのは同時に生まれた人数です。念のため。
※ 稲1束から穀1斗が取れるそうです。10斗(と)で1斛(こく)。要するに、穀40斛=稲400束。
  (参考までに、口分田2段の標準収穫量は50束)
  ただし、現在の合・升・斗とは異なります。
  めんどくさいけど、自分で調べて。


参考資料

青木和夫他 校注 「続日本紀 一」第4刷 岩波書店(新 日本古典文学大系) 1994年
青木和夫他 校注 「続日本紀 二」第3刷 岩波書店(新 日本古典文学大系) 1994年
青木和夫他 校注 「続日本紀 三」第3刷 岩波書店(新 日本古典文学大系) 1995年
青木和夫他 校注 「続日本紀 四」第1刷 岩波書店(新 日本古典文学大系) 1995年
渡辺晃宏 「平城京と木簡の世紀」第1刷 講談社(日本の歴史) 2001年  策謀と、血と祈りのロマネスク♪
東京学芸大学日本史研究室編 「日本史年表」増補3版第2刷 東京堂出版 2004年


巻一

起丁酉年八月 尽庚子年十二月 by菅野真道等
697年〜700年。
続日本紀の出だしは文武天皇の紹介で、いきなり読む気を失くす事うけあい。
大したできごともないし。
……第一巻からかなり薄味なやる気でのお送りですが、暇ならお付き合い下さい。
この巻には2件の記事がございます。

[1] 文武天皇三年 正月壬午条  (699年 1月29日)

☆新羅が女 牟久売(むくめ)

・二男二女
・林坊(藤原京)
・あしぎぬ5疋 綿5屯 布10端 稲500束 乳母一人。

・記念すべき多産記事第一号は新羅人。姓不詳。
 新羅人にしては和風な名前ですが、先祖が新羅人なのか、それとも帰化する時に改名したのか。
 もちろん分かりませんけども。

[2] 文武天皇四年 十一月壬寅条  (700年11月28日)

☆鴨君糠女(かものきみ ぬかめ)

・二男一女
・大倭国葛上郡
・あしぎぬ4疋 綿4屯 布8端 稲400束 乳母一人。

・プレゼントはすべて牟久売さん時の8ガケになってます。
 もちろん乳母は別にして。
 あ、「乳母」は「めのと」と読んで下さい。


巻二

起大宝元年正月 尽二年十二月 by菅野真道等
701年〜702年
持統上皇がこの世を去ったのがこの頃。頃っていうか702年の12月。
多産記事はありません。
さみし。
記事の対象は地方豪族(?)だけっぽいから、2年間くらい三つ子が生まれないことくらいあるよね。
……ほんとか?


巻三

起大宝三年正月 尽慶雲四年六月 by菅野真道等
703年〜707年。
大宝元年=701年で西暦に換算するのが楽だから、大宝にはもう少し頑張って欲しかった……。
中途半端なところで巻が終わるのは、文武天皇が崩御なさってしまったためです。
や、なんか好きなんですよ、文武天皇。
この巻は多産記事の嵐。計4件もあるんです。
産声三重奏の時代にようこそ。

[3] 文武 慶雲元年 六月乙丑条  (704年6月11日)

☆高屋連薬女(たかやのむらじ くすめ)

・河内国古市郡
・三男
・あしぎぬ2疋 綿2屯 布4端。

・子供は、女の子より男の子の方が手間がかかるらしいです。
 そういえば、妹はほっといたら勝手に大きくなってたような?
 で、男の子ばっかり三人も生まれたのに、今回は乳母がつきませんでした。稲もなし。
 書き忘れただけかもしれないし、家格が低かったからかもしれないし、理由はなんとも分かりませんが。

[4] 文武 慶雲三年 二月戌子条  (706年2月14日)

☆鴨首形名(かものおびと かたな)

・山背国相楽郡
・四男二女
・先に生まれた男の子二人を大舎人に。

・たぶん最多記録の六つ子。
 大舎人になった二人は、その後どうなったんでしょうねー。

[5] 文武 同年 三月丙辰条  (706年3月13日)

☆日置須太売(へおきのすため)

・右京(藤原京)
・三男
・衣粮、乳母一人。

・姓を持たない人第一号ですが、今回は乳母あり。
 大倭国外に乳母は派遣できないんでしょうかねえ……。
 プレゼントの詳細が記載されていない理由を以下から一つ選んでください。
   A.何をあげたか忘れたから!
   B.書くのが悲しくなるほど少なかったから!!
   C.人には言えないような物だったから!!!
 慶雲年間には天災記事&民政記事が多いし、実際に予算が足りなくなってた可能性はある。と思う。

[6] 文武 慶雲四年 五月癸丑条  (707年5月16日)

☆村国連等志売(むらくにのむらじ としめ)

・美濃国
・三女
・穀(もみ)40斛、乳母一人。

・言った端から美濃に乳母が……。
 こういう場合、乳母は大倭の人なのか美濃の人なのか、多少気にならないでもない。
 稲の単位が束から斛に替わったのは何ででしょう。てか、普段は脱穀せずに保存してたのか?


巻四

起慶雲四年七月 尽和銅二年十二月 by菅野真道等
707年〜709年。
奈良時代においては最も有名な年号「和銅」が用いられた時代です。
多産を報告するのは国司の仕事らしいのですが、国司の職場である国衙が整備され始めるのは和銅年間。
それまで、郡司と一緒に仕事をしていたそうです。
和銅年間あたりから始まる「多産記事の減少」と「国衙の整備」を結びつけるのは無理があるかなあ?
国府の成立によって、国司と地方豪族の関係が希薄になった、とかさ。
だめ?

[7] 元明 和銅元年三月庚申 (708年3月27日)

☆国造千代が妻 如是女(にょぜめ)

・美濃国安八郡
・三男
・稲四百束、乳母一人。

・二件続けて美濃の人。美濃国司は子供好きだったんですかねー。
 「にょぜめ」の振り仮名は「続日本紀 一」に従ったのですが、ちょっと無理あると思いませんか?
 じゃあどう読むのかって訊かれても困ります。
 安八郡って、天武天皇が挙兵したとこでしたっけ。違ってたらごめん。


巻五

起和銅三年正月 尽五年十二月 by菅野真道等
710年〜712年。
710年ということはアレです。南都ステキな平城京!
受験生時代の当初、知っていた年号はコレと794年くらいでした。あとは1192年くらい。
左大臣石上麻呂が藤原京を任されましたけど、そういえば、藤原京ってその後どうなったんでしょうね?(調べろよ)

[8] 元明 和銅五年七月戌寅 (712年7月5日)

☆狛部宿禰奈売 (こまべのすくね なめ)

・山背国相楽郡
・三男
・アシギヌ2匹、綿2屯、布4端、稲200束、乳母。

・相楽郡、二件目です。
 後に、相楽郡の評督(郡司)が遣唐使に参加したりします。
 郡司は終身らしいし、この時の郡司は多分その人。
 プレゼントはケース[3]のぴったり半分。


巻六

起和銅六年正月 尽霊亀元年八月 by菅野真道等
713年〜715年。
元明天皇は娘の氷高内親王を「若くて綺麗で優しい人」と絶賛、譲位しました。
格調高くて素敵な名前だとは思います。

[9] 元明 和銅七年五月癸丑 (714年7月27日)

☆物部毛虫刀@(もののべの けむしめ)

・土佐国
・三子(男女不明)
・穀40斛、乳母。

・いくらなんでも毛虫は無いだろ、毛虫は。
 で、単位が穀だったり束だったりするんだけど、それは何故?
 調べる気とか全然なさそうな口調なのは何故?


巻七

起霊亀元年九月 尽養老元年十二月 by菅野真道等
715年〜717年。
元正天皇の即位に合わせてせっかく「霊亀」と改元したのに、この巻だけでまた改元。
うちのパソコン、元正を一発変換できないコなんです!
困るんです! 使い捨てじゃありません!
文字ばっかりで気持ち悪くなってきた……。

[10] 元正 霊亀元年十二月己未 (715年12月11日)

☆占部御蔭女 (うらべの みかげめ)

・常陸国久慈郡
・三男
・粮、乳母。

・これまでで一番遠いんじゃないでしょうか。常陸。
 今回は、暦の上では真冬なのに衣なし。具体的な量も分かりません。

[11] 元正 養老元年六月己巳 (717年6月1日)

☆素性仁斯 (そせい にし)

・右京(平城京)
・三女
・衣、粮、乳母。

・変な名前……(失礼な)。


巻八

起養老二年正月 尽五年十二月 by菅野真道等
718年〜721年。 この巻に多産記事はなし。
前巻[11]の後、多産記事は15年間途切れます。
どうしてでしょうね?
……少しは考えてみましょうか。
考えられる理由は以下の4つしかない(と思う)。
 1.この間、三つ子(あるいは四つ子でも五つ子でも)が産まれなかった。
 2.国司が多産の事実を知らなかった。
 3.律令制府が多産の事実を知らなかった。
 4.続日本紀に書かれていないだけ。
番外として、「朝廷が多産を褒賞しなくなった」という可能性もないわけありませんが、
全く多産記事が無い順仁・称徳朝を除いてそれは無いんじゃないかなー。


巻九

起養老六年正月 尽神亀三年十二月 by菅野真道等
722年〜726年。
この巻の途中、神亀元年二月に聖武天皇が即位します。
ってことは何か、多産記事がめっきり減った犯人は聖武なのか?
この天皇、デビュー直後に吉野行幸して以来、行幸と遷都の嵐だしな。
多産について云々してる余裕なんてなかったのかもしれん。


巻十

起神亀四年正月 尽天平二年十二月 by菅野真道等
727年〜730年。
相変わらず、聖武はあっちに行ったりこっちに来たり落ち着きがないこと甚だしい。
あんたがそんなんだから多産記事が増えないんだ!(たぶん)。
長屋王の変とか起こしてる場合じゃないから!
嗚呼、このやり場のない怒りをどうすれば良いのか。


巻十一

起天平三年正月 尽六年十二月 by菅野真道等
731年〜734年。
前後の巻に多産記事はまったくないのですが、ここにだけポツンと。
これはこれで謎かも。

[12] 聖武 天平五年九月丁亥 (733年5月23日)

☆君部真塩女 (きみべのましおめ)

・遠江国蓁原郡
・三男
・大税200束、乳母。

・これまでは財源を明らかにせず、漠然と「稲」や「穀」だったのですが、
 ここでは「大税」と明記されてます。
 詳しい事は分からないけど、たぶん国司が管理してる稲です。
 だから多産記事が減るのは、支出を嫌う国司のせいかなと最初は思ったのですが。
 はてさて。


巻十二

起天平七年正月 尽九年十二月 by菅野真道等
735年〜737年


巻十三

起天平十年正月 尽十二年十二月 by菅野真道等
738年〜740年


巻十四

起天平十三年正月 尽十四年十二月 by菅野真道等
741年〜742年


巻十五

起天平十五年正月 尽十六年十二月 by菅野真道等
743年〜744年


巻十六

起天平十七年正月 尽十八年十二月 by菅野真道等
745年〜746年

[13] 聖武 天平十八年正月庚辰(746年1月28日)

☆上部乙麻呂が妻 大辛刀自売

・右京
・三女
・正税四百束
・正直言って、そろそろやる気は限りなく残量ゼロに近い感じなわけなんですが、
 税系が整理されて大税から正税になりましたね。
 量も前回の二倍ですが、その代わりというか、乳母がついてません。


巻十七

起天平十九年正月 尽天平勝宝元年十二月 by菅野真道等
747年〜749年


巻十八

起天平勝宝二年正月 尽四年十二月 by菅野真道等
750年〜752年
八世紀もようやく折り返し。うーん、長いな……。

[14] 孝謙 天平勝宝二年七月甲辰(750年7月5日)

☆みか(長に瓦)玉大魚売

・摂津国
・三男
・正税三百束、乳母

☆海直玉依売

・参河国
・三男
・正税三百束、乳母
・一件に二人ってのは、今回が初めてですね。

[15] 孝謙 天平勝宝四年七月甲寅(752年7月10日)

☆穴太部阿古売

・下総国
・二男二女
・糧、乳母
・前回は具体的な量が書かれていたのに、今回は「糧」一文字。
 どうしてでしょうねえ……。


巻十九

起天平勝宝五年正月 尽八歳十二月 by菅野真道等
753年〜756年
『続日本紀』は全四十巻。ということは、次でようやく前半戦終了です。
……長い、長すぎだよ。
ちなみに前半二十巻が菅野真道、後半二十巻が藤原縄継責任編集。
いっそ、そこで別の歴史書に分けてくれればよかったのに。
「桓武天皇実録」とかさ。言ってもしょうがないけど。
そんなこんななわけで、前半に載ってた記事をまとめたところで(まとめてないけど)一旦終了。
もう飽きたしさ。


巻二十

起天平宝字元年 尽二年七月 by菅野真道等
757年〜758年
「多産記事 前半編」もこの巻で終りです。
さて、最後の記事は、
…………「該当無し」
いいんだけどね。分かってたけどね。ああ疲れた。

ところで、『新日本文学大系 続日本紀一』の補注に、多産記事の解説があります。
せっかくだから全文まるごと引用してみます。適宜改行しました。
「続紀には、多産によって褒賞されたとする記事が十八例ある。
その多くは一度に三男もしくは三女を産んだとするものであるが(三児とするもの一例あり)、 一産に二男二女とするのが二例、二男一女とするのが一例、三産に六男とするものが一例ある。
褒章は一般にあしぎぬ・綿・布・稲などを賜い、乳母を与えることによって行われるが、 慶雲三年二月戌子条の三産六児の場合は初産の二男を大舎人に任用している。
こうした多産記事について直木孝次郎は、京に近接した地域と東国に限られること、 淳仁・称徳朝にはこの種の記事が見られないこと、 続紀では女だけを産んでも褒賞されるが、後紀以降ではそのような例はないこと、などの特徴を指摘している」

だそうです。

とりあえず、最初の一文に注目!
「続紀には、多産によって褒賞されたとする記事が十八例ある」そうなんですよ。
四十巻に十八例。結構ありますね。順調に出てくるなら、二巻に一例。いいペースです。
でもね、だけどね、前半二十巻ですでに十五例まで出てきてしまってるんですよ、これが。
というか、文武朝の記事だけで全体の1/3を占めてしまってます。
文武時代が多過ぎなのか、他がやる気ないのかは微妙なところなんですが、
後半の二十巻には、わずか三例しかないことになります。
……やる気なんて出ないよね。
まあその、「後半編」はおそらく手も付けないまま終わることでしょう。

威張れることではありませんが、私は「物事を把握する」ということが非常に苦手です。
当然、何かをまとめるのも大の苦手なわけです。
継続することと集中することも苦手でして、
・集中できない
・継続できない
・まとめられない
というダメ学生の三大特徴を全て備えているんです。えへ。
ついでに言うと文才も無い。
何が言いたいかって、この記事に「まとめ」は無いってことです、要するに。
↑の引用文をまとめのかわりにするってことで(最低。

こんな駄文にここまでつきあってくれて有難うございました。
よっぽど暇だったんですね!
老婆心ながら、時間はもう少し有効に使ったほうがいいと思いますよ。

あ、一覧表にまとめたのもあるんですけど、見てみます?
こちらですよー。


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2006年2月14日 作成
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