Written by 大和屋@洛楽史学会 2006

近代行政文書を読む 〜地方改良運動と社寺合併〜

【簿冊名:奈良県庁文書「社寺合併書類綴」(奈良県立図書情報館蔵)】


0.はじめに

 「合併」という言葉を聞いたとき、あなたは何を思い浮かべるだろうか。数行が合併してやたらと名前が長くなった銀行を思い浮かべる人もあれば、数年前に全国的規模で推進された市町村合併を思い出した人もいるだろう。
 ところで、今からちょうど100年ほど前、明治も末にさしかかっていた我が国では、神社あるいは寺院の合併が、政府・内務省の主導の下で盛んに行われていたのである。これから紹介するのは、この社寺合併がピークを迎えつつあった明治40(1907)年、奈良県内のとある寺院から知事宛に提出された一通の公文書である。「合寺併ニ堂宇売却御願」と題されるこの文書は、いかなる社会情勢を背景として作成されたのか、また当時の政府がとった政策からは、どのような意図を読みとることができるのか。
 本稿では、以上のような点を中心に日露戦争後の社会の一面を捉え、この文書が持つ史的意義を考察してみたい。


1.史料「合寺併ニ堂宇売却御願」

作成年月日:明治40(1907)年5月30日
作成者:奈良県生駒郡三郷村大字立野 黄檗宗万福寺末 道浄寺
(道浄寺・万福寺・善福寺・発志院・永慶寺の各住職、道成寺・善福寺の各信徒総代、三郷村長の連署)
宛先:奈良県知事 川路利恭
(本文)
「 奈良県生駒郡三郷村大字立野 黄檗宗万福寺末 道浄寺
 右当寺儀は無壇少禄の貧地にして、僅少の所得を以て今日迄維持致し来り候へ共、時勢の変遷に伴ひ増租税併に宗費等相嵩し。 加ふるに、堂宇等日を追ふて破損候処、小数の信徒に於て之れが営繕費を負担し、或は確実なる維持生計の方法を構ずる等のこと到底致し難く 、不得止(やむをえざる)事態に有之(これあり)候間、今般関係者一同協議の末、該法類(=同宗派の寺院) 生駒郡三郷村大字立野善福寺へ合寺仕り候 間、御支梧の廉(=反対する事由)無之候得者(これなくそうらえば)、御許可被成下度(なしくだされたし)。尚ほ堂宇の義は、関係者一同協議相尽し、別紙見積代金を以て売却し、此の代金中、別紙計算書に掲げたる合寺に関する諸雑費併に負債返却金、及大本山基本金借用返金其他宗費滞納金等を控除し、残余は善福寺維持資金の内へ編入し、寺有明細帳に記入の上、確実なる銀行へ預け入れ、該利子を以て 元道浄寺本尊及歴代永年の祭祀料に相充て申度候 間、是れ亦併せて御許可被成下度。別紙堂宇建坪及売却見積代金、其他諸雑費見積計算書併に図面等相添へ、関係者一同連署の上、管長の副願を以て此段奉願(ねがいたてまつり)候也。
追て 道浄寺跡地の儀は、官有地第四種に属するを以て合寺御許可と同時に善福寺へ寄附し、 制規に依り郡村宅地に変換し、他の所有田畑宅地山林等と共に、総て 善福寺所有地として永く保存可仕候 (つかまつるべくそうろう)也。
明治四十年五月三十日」
(原文は縦書き。カタカナはひらがなに、旧字体は新字体にそれぞれ改めた。句読点、下線及び文字の強調、かっこ内は引用者による。)


2.史料にみる日露戦争後の社会

 史料の冒頭では、道浄寺が善福寺に合併されることになった経緯が語られている。中でも、「時勢の変遷に伴ひ、増租税併に宗費等相嵩し」という一節に注目したい。日露戦争の戦費を賄うべく創設された非常特別税は、戦争終了後も継続され、道浄寺の運営を支えていた信徒達を経済的に圧迫し疲弊させていたことがわかる。
 同時に宗費(本山への負担金とみられる)の高騰にも言及しているが、これは黄檗宗の戦争協力(従軍布教師の派遣など)との関連を指摘できるかもしれない。
 日露戦争は、戦闘が終了してもなお、国民生活に大きな負担を強いていたのである。


3.地方改良運動

 このような状況にあって、日本が帝国主義列強と伍していくための国力増進策の一環として、政府・内務省が中心となった日露戦後経営=地方改良運動が推進された。
 地方改良運動は、日露戦争の戦費負担で疲弊した町村行財政の再建と、生活習俗の改良による民心の統一を柱として多方面で展開したが、その一環として強力に遂行されたのが神社合祀(神社整理・神社合併)政策であった。史料はこの神社合祀政策と深く関わったものである。


4.神社合祀政策

 神社合祀政策は、明治39(1906)年に後述の勅令や通牒が公布されたことで本格的に実施されていく。日露戦争時、神社は戦勝祈願・武運長久祈願の場として新たな意義を与えられ、人々の意識を国家に結びつけていく役割の一端を担うようになっていった。神社合祀政策はそのような状況を背景に、「一村一社」を目標として断行されたのである(補注1)(村上重良氏によれば、原則として村社は行政町村ごとに一社、無格社は自然村(字)に一ないし数社に減らす方針がとられたという)。
 では、この政策における政府のねらいはどこにあったのか。史料と密接に関係する明治39(1906)年の勅令第二二〇号「神社寺院仏堂合併跡地の譲与に関する件」の布達にまつわる政府閣僚の言説から考えてみたい。
 
 
い:勅令二二〇号
 勅令二二〇号は、 合併によって不用となった境内官有地を、官有財産のために必要な部分を除き、合併した神社・寺院に譲与することを許可 したものであった。9月の勅令公布に先立つ6月、内務大臣原敬が総理大臣西園寺公望に提出した文書(「社寺合併跡地無代下付の件」内務省秘甲第七十二号)には、この案件に対する原の意図がよく表れている。
 それによると、府県社以下神社(補注2)は全国で19万あまりを数え、その中でも大半を占める無格社は由緒も正しくなく、祭典執行もままならず、崇敬の実も挙がっていない。また寺院・仏堂も10万あまり存在するが、これも大半は荒廃し、法要も執行されていない状態にある。よって、「斯かる維持困難なる社寺は宜しく合併を行はしめ、可成的其の数を減じ実全なる社寺のみと為すことを図るは目下の急務」である、というのである。
 他方、原は無闇な合併は社寺に愛着のある氏子・檀徒の反発を招き、また社寺の資産を奪われるとの危惧を抱くかもしれないとして、合併跡地で、所有権の所在がはっきりしないまま名義上官有地に編入されていた社寺境内地については、合併社寺への譲与を行っても問題ないと述べている。
 このような原の姿勢は、そのまま政府の神社合祀政策に対するスタンスとなっていった。このことは、同年8月に布達された内務省神社・宗教両局長の通牒(「社寺合併並跡地譲与に関する件」)に、合併跡地の譲与措置は、体裁が備わらず、祭祀・法要に支障のある神社・寺院の設備を完備すると同時に、資産を増やして維持に困難のないようにし、社寺の尊厳を図ろうとするためのものである、と述べられている点からも明らかである(補注3)。
 このようにみてくると、社寺の経済基盤を安定させ、祭祀・法要を全うに執行させて尊厳を保とうとしたところに政府のねらいがあったといえそうである。
 
 
ろ:合祀政策の本質〜宮地正人氏の論考から〜
 一方、宮地正人氏は、神社合祀政策の本質は、神社を一町村一社に統一し、それによって行政町村そのものに共同体的関係を創出しようとした点にあると述べている(補注4)。地方改良運動の柱のひとつであった民心の統一を成し遂げる上で、この政策が大きな役割を担ったというのである。
 この主張における神社と氏子の関係は、そのまま寺院と信徒の関係に置き換えることが可能であろう(明治39年の一連の勅令や通牒が、神社と同様に寺院の合併をも視野に入れたものであった点を想起されたい)。
 神社合祀政策は、明治末期以降の神社行政、すなわち村上氏が指摘するところの国家神道の制度的確立期における影響を考える上で重要な意味を持つため、その名の通り「神社」の合併がクローズアップされる傾向にあるように思われる(研究対象が神社とその関連分野に限られている場合当然といえば当然だが)。実際、事例件数では神社合併が寺院合併より圧倒的に多い(補注5)。
 しかしながら、宮地氏の主張を借りて、民心の統一(による行政町村の強化)を目的とした地方改良運動の一環としてこの政策を捉えるとき、そこにはこの目的を果たしたであろう、神社と並ぶもう一つの施設として、寺院の存在がはっきりと知覚されるはずである。
 
 
は:史料にみる合祀政策の影響
 ここで、上の点を確認する意味で史料の中盤以降に目を通してみよう。大まかな要旨は以下のようになるだろう。
「道浄寺は維持が困難となり、善福寺へ合寺(合併)することにしたので許可を願いたい。道浄寺の堂宇については売却し、売却代金から必要諸費を差し引いた残金は善福寺の資産として銀行へ預け、その利子を道浄寺関連の祭祀料に充てたいので許可を願いたい。跡地については官有地であるため、合寺の際に善福寺へ寄附し、同寺所有地として保存していく」
 史料が作成された主目的は、合寺と堂宇売却の許可を得ることにあったわけだが、合併跡地の処分についても、勅令二二〇号の旨に沿う形で善福寺に譲与されることがきちんと記されている。史料の内容を踏まえる限り、善福寺は合寺によって道浄寺の跡地を得、道浄寺本尊と歴代(住職か)の祭祀を継承することになったことがわかる。
 この史料からうかがい知ることはできないが、おそらくこののち道浄寺本尊と歴代の位牌は善福寺に移され、道浄寺の信徒もそれらの祭祀・供養を行う必要上、理非を論ぜず善福寺信徒に「鞍替え」することになったであろう。合併跡地譲与によって合併先である善福寺の資産は拡充され、信徒の統合による民心の統一が図られる形になったと考えられる。こうした現象は、合祀が行われた神社で起きていたことと何ら変わりはないのである(補注6)。


5.まとめ〜本史料の史的意義〜

 日露戦争後に推進された地方改良運動の一環として遂行された神社合祀政策。その目的としては、社寺の財産蓄積および尊厳の維持と、行政町村における共同体的関係の創出が期待されていたようである。この史料の史的意義は、そうした神社合祀政策の目的が、仏教寺院においていかにして果たされ、またそのために寺院関係者らがいかに行動し、あるいは行動せざるをえなかったかを伝えている点に見いだすことができよう。
 
補注
1:神社合祀政策を主導した内務官僚らは、神社をヨーロッパにおける教会になぞらえ、人々の精神的支柱として位置づけようとした。
2:明治初期に定められた社格のうち、官国幣社より下位に位置づけられたもの。府県社・郷社・村社・無格社を指す。
3:とりわけ神社は、仏教をはじめとする宗教とは異質な「国家の宗祀」としての神道における祭祀を執行する場として重視されていた。内務省社寺局が神社局と宗教局に分離された(明治33年)のもこうした背景による。
4:宮地氏は、行政町村における共同体的関係の創出は、同時に旧来の村落共同体的関係を打ち壊すことを意味していたとしている。ここに神社合祀への批判が展開されていく端緒があった。
5:例えば、奈良県では明治39〜42年の4年間で、39件の社寺合併が行われたことが知られるが、そのうち寺院合併の事例は本件1例のみである。
6:神社合祀の基本的パターンは、被合併神社の祭神を合併先神社に勧請し(場合によっては社殿の一部を移築し)、合祀後は両神社の氏子が共同で祭祀にあたるというものであった。合祀により、行政村内の村民の融和が報告されている地域がある反面、合祀によってかえって祭祀の実が挙がらなくなった例も報告されている。このような事態は、神社合祀の基準がその経済力のみに求められ、神職や氏子・崇敬者の存在を無視して合祀が強行されているという経済合理主義への批判となって現れた。多方面での批判があったにもかかわらず、1906年に約19万あった全国の神社は、1919年までの13年間に7万4千社余りが整理され、約11万6千社に減少した。


【参考文献・論文】

桜井徳太郎・大濱徹也『近代の神道と民俗社会 講座神道第三巻』桜楓社、1991年
宮地正人「地方改良運動の論理と展開」(『史学雑誌』79−8,9所収)
阪本是丸『近代の神社神道』弘文堂、2005年
小澤浩『日本史リブレット61 民衆宗教と国家神道』山川出版社、2004年
村上重良『国家神道』岩波新書、1970年
笠原一男・村上重良編『現代日本の宗教と政治』新人物往来社、1971年

文責:大和屋


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