考察 みたいなもの
1.賜るものの違いについて
さて、せっかく簡潔な表にまとめたんだから、ちょっとは考察してませう。
この際、ちょっと特殊なNo.4(六つ子)の記事は除外することにします。
それに、最初の記事と最後の記事の間には半世紀以上の時が流れているわけで、
一緒くたにするわけにもいきませんね。
というわけで、聖武朝以降はとりあえずほっとくことにしましょう。
元正朝以前、すなわちNo.1からNo.11までですね。
これをもう一回、ちょちょいと表にまとめてみます。
せっかくだから、畿内と畿外もわけてみましょっか。
表2a.元正朝以前の多産記事(畿内)
No | 年月日 | 国・地域 | 母親の名前 | 人数 | 賜物 |
1 | 699年1月29日 | 藤原京 | 牟久売 |
2男2女 | ア5疋 | 綿5屯 | 布10端 | 稲500束 | 乳母 |
2 | 700年11月28日 | 大倭国 | 鴨君糠女 |
2男1女 | ア4疋 | 綿4屯 | 布8端 | 稲400束 | 乳母 |
3 | 704年6月11日 | 河内国 | 高屋連薬女 |
3男 | ア2疋 | 綿4屯 | 布4端 | − | − |
5 | 706年3月13日 | 藤原京 | 日置須太売 |
3男 | 衣 | 糧 | 乳母 |
8 | 712年7月5日 | 山背国 | 狛部宿禰奈売 |
3男 | ア2疋 | 綿2屯 | 布4端 | 稲200束 | 乳母 |
11 | 717年6月1日 | 平城京 | 素性仁斯 |
3女 | 衣 | 糧 | 乳母 |
表2b.元正朝以前の多産記事(畿外)
No | 年月日 | 国・地域 | 母親の名前 | 人数 | 賜物 |
6 | 707年5月16日 | 美濃国 | 村国連等志売 |
3 女 | −−− | −−− | −−− | 穀40斗 | 乳母 |
7 | 708年3月27日 | 美濃国 | 如是女 |
3 男 | −− | −− | −− | 稲400束 | 乳母 |
9 | 714年7月27日 | 土佐国 | 物部毛虫 |
3 子 | − | − | − | 穀40斗 | 乳母 |
10 | 715年12月11日 | 常陸国 | 占部御蔭女 |
3 男 | − | − | − | 糧 | 乳母 |
もう一目瞭然ですよね。
畿内だと布がもらえて、畿外だともらえない。
だからどうした、と言われても困ります。
記事は畿内の方が多いのですが、圧倒的とまではいきません。
それでも、偏ってるのは否めませんね。
ところで。
「畿内は布で畿外は布じゃない」ってそんな話、どこかで聞いたことありませんか?
高校の時、世界史を選択してた人は知らないかもしれません……。
というわけで、そうです、高校日本史です。
やった、よね?
少なくとも、俺は予備校で習った気がします。
そう、古代史の話で最もつまらない税制のあたり。
おぼえてますか?
…………俺は憶えてません(爆
今回出てくる米と布に関してだけ、さらっとおさらいしましょう。
この時代の人は、口分田を割り当てられてそこを耕作してました。
男性は2段、女性ならその2/3。
その収穫から毎年3%の「租」を徴収されます。
消費税より安いじゃん!
……とは言っても、税は他にもいろいろあるから生活は楽じゃありません。
口分田2段の標準収穫量は50束。租は2束2把です。
稲400束は、男性8人が収穫するのと同量ですね。
租は、大税・正税と税体系の変遷とともに名前を変えて行きます。
租とセットで憶えたのが調と庸でしたよね。
負担するのは正丁、すなわち成人男性です。
布を納めるのは調の方。
畿外の人は布以外のもので納めてもいいけど、畿内では布に統一。
布は通貨としての役割を持っていたからだそうです。
裏を返せば、
畿外では、布に通貨としての価値はなかった、と。
そういうことでいいんでしょうか。
でもまあ、通貨としての価値云々以前に、
畿内と畿外で扱いに差があっただけという気もします。
あんまし関係なかったかもしれませんね。
…………。
や、そんなことはない(ことにしよう)。
なんとか絡めないとここまで書いた甲斐がなさすぎですから。
えぇと、その、
租と調の性格がどう違うかについて考えてみるとかどうでしょう。
調は中央財源です。
日本全国からはるばる藤原京や平城京まで、納める人が歩いて運びます。
布も量があったら重いよね。しんどそうです。
あ、畿外の人は布じゃなくてもいいんでした。
たとえば金とか。鉄とか。銅とか鉛とか。
……ムリ。死ぬ。
ともあれ、調は律令制府の手元に集められています。
では、租はどうでしょう。
米を収穫したら、都まで運んでくるのでしょうか?
答えはNO。
租は、各郡におかれた倉に蓄積されていました。
その理由は?
米を運ぶのは重くてしんどいから、ではありません。
それでいったら、布だって十分しんどい。
さて。
租を集める倉は郡単位におかれていました。
各郡には郡司がいます。
郡司はもともと在地の豪族層だった人たちでしたよね。
豪族というからには、その地域をそれなりに支配していたわけです。
支配、とはどういうことか。
言い換えると、豪族は一体何を支配していたのでしょうか。
考えるまでもない、かな。
豪族が握っていたもの、
それはやっぱり税収でしょう。
利権とか言ってもいいんじゃないでしょうか。
そして、その「利権」はそのまま租と同じものなハズです。
なんか長くなってきたから、ここから先はサクサクと。
つまり、豪族の収入を律令制府が奪ったわけです。
でも、豪族だってその収入に未練があるし、
はいどうぞってそのまま都に差し出すほど弱気じゃ豪族はつとまらない(かどうかは知らんが)。
そこで生まれた妥協策が、郡ごとに集積させる方法。
都に持ち去られるわけじゃないから、なんとか豪族も納得したのでしょう。
で、倉の支配権をだんだんと国司に移していくと。
出挙が行われるようになった理由もこの辺りにありそうですけど、
その話はこの際関係ありません。
……ああ、全然サクサクしてない。
ともあれ「布が畿内だけ」というのは、ここまでで説明できてそう。
布は都に集められているんだから、
「賜る」と言っても、そう遠くまで届けるわけにはいかなかったてことで。
聖武・孝謙朝になると布がもらえなくなるのは何ででしょうねえ。
とりあえずは、「貨幣が誕生したから」ってことでもいいのかな。
一方、稲とか穀とかは各郡ごとに管理してるんだから、賜るのも簡単ですね。
そうなると、いちいち郡の名前が出てくるのも、その関係な気がしてしまいます。
郡の名前が出てこない記事は、国府のある郡のできごとということにしておこう(適当)。
そんなわけで、米は全員もらえるわけです。
例外はNo.3。
これに関しては、稲ももらっていたと考えるほうが自然ですよね。
稲を賜った記事は確かに記載されてませんが、
稲も乳母もナシというのは周りと比べて明らかに浮いてますし、
記事の後半が脱落しているとかなんとか、そんな感じでどうでしょう。
ほら、そうしたら話がうまくまとまるでしょ!?
……正しいかどうかはべつとして(ぼそり
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